spa直入 の検索結果:
…ンジしたのだが、 「SPA直入」を造ったことは、今となってはホントに懐かしい。 そんな『SPA直入』に 松島裕さんは行かれたようである。 そして、こんなブログをアップして頂いた。 このサーキットを創ろうと思ったのは当時・1988年頃は 鈴鹿も菅生もサーキットはあったが、一般のバイクは走れなかったのである。 そんなことから、『一般のユーザーが自分のバイクで走れるサーキット』を創ろうと思ったのである。 そんなコンセプトは今でも生きていて、 一般のユーザーが気軽に走れるサーキットと…
…時代は北海道・東北は札幌・仙台に6年もいて、 出張の機会も多かったのだが移動はすべてクルマだったので、 青森・盛岡・秋田・山形・福島・宮城の各県の間にある地方の温泉地にはよく泊まった。 温泉と言っても市内のホテルと変わらない代金だった。 よくテレビに出てくる青森の酸ヶ湯温泉など何回泊ったか解らないほどよく泊まったので、 この大浴場は懐かしい。 九州の温泉もSPA直入の直入が温泉地だったし、 阿蘇近郊の温泉にもよく泊まっている。 そうい意味では結構な現役生活だったと言っていい。
…によく泊まったし、 spa直入建設当時は、直入は勿論、大分・熊本の温泉郷などにもよく泊まったものである。 北海道も2度担当したので、 北海道の温泉も殆ど知っていると言ってもいい。 現役時代の40年は、今の二輪営業のスタイルとは全く違って、 各社とも地域代理店とその下にある販売店網の時代だったから、 そこへの訪問が営業活動の主体だった、 ホントに恵まれた環境の中で過ごしたのである。 代理店の販売店会議なども『新年会』など温泉地で開催されることが多かったので、熱海や白浜など有名温…
…いる。 こんな現在のSPA直入の写真と これは1990年4月15日のSPA直入のオープン当日の写真なのだろうが、 出来れば1枚1枚が見てみたい懐かしい写真なのである。 その中の1枚には私の姿も写っている。SPA直入が自らのバイクでサーキットを走ろうと集まった、ユーザーたちで埋まって、 開会式に列席された当時の直入町長(お名前を失念したが)は、『有史以来最高の人数が直入町に集まった』とそのご挨拶の中で述べられたのである。当時日本では一般ユーザーはサーキットを走れなかったので、『…
…で初めてのサーキットSPA直入 ● レース運営の積極化 など販売対策などではなくて、 総合営業活動として 兎に角、新しいカワサキのイメージ創造に取り組んだのである。 この期間には、不思議なほど具体的な販売対策や販売促進策は行っていない。 一番台数増に貢献したのはカワサキらしいバイクではなくて 何の変哲もないZEPHREだったのである。 この車が開発当時からこんなに売れるとは誰も思っていなくて、 生産台数は極小だったからバックオーダーが出たのだが、 生産台数を増やさずにそのまま…
…る。 この時期は丁度SPA直入が建設中だったので、 そんなことにでもしなければ、川崎重工業の役員さん方に『二輪の遊び会社』などと言ったら、新会社の設立などは申請が通らないのである。 この時の川重社長の大庭浩さんは単車本部長時代に私が番頭役を務めてたので、『古谷が言うのなら』とあまり中身は解らずに通して頂いたのだと思っている。 そんなことで出来た『ケイ・スポーツ・システム』だが、 この会社での最初の仕事は、ユーザークラブKAZEの本格的な導入だった。 当時はホンダはHART ,…
…るサーキットが必要でSPA直入もKSSの管理下だったので、 そこでも走らせたこともあったのだが、いかにも小さすぎて、実験にならなかったのだが、 その当時カワ販は岡山に完成したばかりの会員制のTIサーキットの会員権を2枚も所有していたのである。 そんな4輪の会員制サーキットの会員券をなぜ持っていたのかというと、 TIサーキットの初代社長の千々岩さんは元ホンダ技研の常務さんだったのだが、千々岩さんに会員権を買ってくれと頼まれたので、 約1000万円もしたのだが、2枚も買って立ち上…
…ーの走れるサーキットSPA直入の建設など力を入れていたのだが お陰様で1995年にはカワサキの国内販売の最高記録7万台の達成などに繋がったのである。★ ところで『二輪文化を伝える会』の主宰者・松島裕さんが 来る8月26日・今週末の土曜日に「神戸ベンチャー会」に来られて、講話をされるのだが、 結構オモシロイ二輪関係のメンバーが集まるようなので、 是非、この機会に顔つなぎに「いらっしゃいませんか?」 場所はJR 三宮から徒歩3分の日本経済大学の教室です。 今回の神戸ベンチャー会の…
…大分県直入町にある「SPA直入」は間違いなく私と岩崎茂樹とで造ったサーキットである。 大分県直入町に新機種開発用の周回コースを創るべく広大な土地を購入したのは、カワサキが中大型の二輪開発に集中することになったころだが、 たまたま二輪事業の経営が危機的になり、とてもコースなど作る余裕など無くなってしまったのである。 直入町は土地を売却する条件として、コースの従業員など地元町民の就職なども期待していて、 「いつ造るのか」と毎年交渉に来ていて、会社としては困り果てていたのである。 …
…が走れたサーキット「SPA直入」を創ったことが、私の1番の大仕事だったかも知れない。 それは1988年時代のことだが、 当時も日本には鈴鹿もFISICOもその他いろいろサーキットは有ったのだが、 それはどこも「レースライダー」以外は走れなかったのである。 世はまさに「レーサーレプリカ全盛期」で街にはそんなスポーツ車が溢れていたのだが、 そのユーザーたちはサーキットは勿論は走れないし、 走るところがないので、峠にたむろして「峠族」などと呼ばれていた。 各メーカーとも「レーサーレ…
…が走れるサーキット「SPA直入」を創ったし、 イメージ創造だから、末端の一般消費者をも目標に大都会の中心地にショールーム展開もしたのである。 これは東京新宿の一等地に創ったショールームだが、 全国に当時では珍しいほど立派なショールーム展開を試みたのである。 その一環として博多天神に創ったのが「PLAZA IMS」なのである。 当時はレースにも力を入れていて 1993年には鈴鹿8耐でスコット・ラッセルとアーロン・スライトのペアが、 カワサキに初優勝をもたらしたのである。 その時…
…ーが走れるサーキットSPA直入 ●1988 国内ユーザークラブKAZE設立 ●1991 新しいカワサキのイメージ戦略 ●1994 新国内自動車学校設立 現役時代、殆ど4年単位で異動したと言ってもいいし、 職場を変わったのだが、時代が変わったり、新しい仕事ばかりだったので、 前任者からの引継ぎは全くなかったサラリーマン生活だったのだが、 そのスタートがこの新入社員時代の4年間だったのである。★新入社員時代、こんな4年間だったのだが、 この間に『家内との出会い』があり、結構熱烈な…
…なって、明石工場にもSPA直入にもお越しになったりしたのである。★そんな『好感度イメージ戦略』は私にとっても『いい想い出』なのだが、 当時から30年が経つ『令和の時代』に於いてもそんな『好感イメージ』を改めて感じている出来事が出現している。それは『大谷翔平の好感度』である。これこそがまさに『感性のレベルで「好き」と感じられる好感度』だろう。 その投打に亘る『二刀流の成績』から注目されるのは当然だが、MLBは『異例の単独CM』を創ったというのである。 この異例の扱いは、『大谷翔…
…が走れるサーキット・SPA直入』 ● 国内販売『7万台への挑戦』 ざっとこんな感じで、最後の7万台が単なる販売台数実現だけではなくて、 『新しい販売システムの全体的な構築』によって実現できたことが良かったと思っている。 こんな目標に比べたら、今年の目標は低次元かも知れぬが、 米寿を迎えた88歳にしては、『適当に実現可能』な目標だと思っている。 ゴルフの80台、 これが一番ムツカシイと思っているのだが、 ゴルフの回数が減っているので、ちょっとムツカシイかと思うのだが、 目標をた…
…、彼と一緒に造った『SPA直入』での写真である。 私のレース担当の後を引き受けてくれたのが岩崎である。 髙橋鐵郎さんが生産部門から国内販社に来られた時の営業の先生役が岩崎である。 そして田崎雅元さんとのコンビでアメリカ市場を担当したのも岩崎だし、 私と髙橋さんで市場開発プロジェクトを担当した時、イランの現地で活躍してくれたのも岩崎なのである。★ いろんな彼とのプロジェクトがあるのだが、 1987年から直入町に造った『SPA直入プロジェクト』がその最たるものである。 当時は各メ…
…ちが走れるサーキットSPA直入を造ったのは、 カワサキが初めてだったが、 そのオープンセレモニーには4000人のユーザーが訪れて、 『4000台のマシン』がコースを走ったのである。 当時は本格的なレーサー以外はサーキットは走れなかったので、 この試みは画期的なものだったのである。 ここで纏めているように『話題の提供』をレース活動の総括としている。 レース活動については当時の販社でも、 サーキット場に於ける『イメージ向上』に力を入れていた。 これは鈴鹿サーキットでの活動の一端だ…
…位、大分県サーキットSPA直入着工 ● 89年4月 遊び会社ケイスポーツシステムスタート ルマン24時間、多田・宗和・塚本 3位入賞 ● 89年5月 ゼファー発売、 ● 89年6月 全国各販売会社訪問開始 ● 89年7月 鈴鹿6時間耐久、鶴田・北川優勝、藤坂・林2位 鈴鹿4時間耐久、髙橋優勝(BEET) ● 89年8月 国内カワ販の活動内容を大庭社長以下全役員に発表 ゼファー好調で雑誌記事など多数、 ● 89年9月 地方販社の構造計画、西日本からスタート ジェットスキー関連業…
…が走れるサーキット=SPA直入の建設』『ジェット・スキーのJJSBA活動』『ショールームの全国展開』などで その象徴が『新宿のショールーム』であった。 こんな末端のユーザーを大事にすることで、 カワサキを買ったユーザーの満足や、遊びのお手伝いを最優先し、 当時の遊び会社KSSがグループの先頭を走ったのである。 それにより、 遊んでいても『自然に売れる仕組みの構築』を第一目標としたのである。 その象徴でもあった『新宿のショールーム』は JRからの車窓からも、真正面に見える最高の…
…にそう信じていたし、SPA直入も作ったし、遊び会社『ケイ・スポーツ・システム』も設立して『遊び半分ではいい遊びは出来ない』といろんな遊びに徹していたのである。 ★その結果はツキもあって、1年目から結果が出るのである。手元にその1989年の日記があるのだが、カワサキが本格的に『レース活動を復帰』したこの年は、非常にオモシロい展開となったのである。●3月4日の『鈴鹿2&4』では宗和がTT-F1で3位に入ったりして、幸先良いスタートが切れたのである。4輪の星野インパルズも参加してい…
…な紹介が流れた。 『SPA直入 オープン30周年』を機にドローンでの空撮を行ったとか。 1990年4月15日、オープンの日の私の日記には『一生でこんな満足感に浸れる日は日はそうないと思う』と書き出している。 SPA直入は亡き岩崎茂樹と二人で創り上げたサーキットなのである。 現役時代、いろんな新しいことに挑戦したが、 その筆頭に挙げるとすれば、それはSPA直入かも知れない。 川崎重工業にとっても『サーキット建設』などはじめてのことであったし、 これを担当した建設会社もその経験な…
…トを切り、14日にはSPA直入の起工式、4月24日には『ルマン24時間』で『宗和・多田・塚本』が見事3位入賞を果たすのである。● 5月にはZEPHYRの発表があり、全頁のイメージ広告も掲載し、これ以降ZEPYYR が文字通りの『バックオーダー』が延々と続いて、グループ全体の経緯に大きな効果をもたらすのである。不思議なご縁で今も密接に繋がっているRPMの村島ご兄弟とは5月11日に初めてお会いしたりしているのである。● さらに7月23日の鈴鹿6時間耐久では、北川・鶴田組が優勝、藤…
★ SPA直入のことや、これに関係した人たちのことをもう少し書いてみたい。 私の40年間の現役生活ではいろんなことがあったが、『一番心に残っていること一つ上げよ』と言われたら『SPA 直入』と答えるかも知れない。 最初に岩崎茂樹と二人で、草ぼうぼうの現地を歩いたのが最初だが、 日本の中で一番多く訪れた町は『直入町』だし、思い出いっぱいなのである。 直入町長以下、町の方たちとも仲良くなったし、 SPA直入は町の活性化にもお役に立てたこともよかったなと思っている。 この当時、19…
…が走れるサーキット『SPA直入』の管理運営会社という理由で申請したので、川重本社の承認も簡単に取れたのだが、この会社の運営対象は、本音はそんなハードの管理ではなく、それを利用する『末端ユーザーへの働きかけのソフト』が第一目標だったのである。 ★ホントに、なぜこんな目標が達成できたのか?端的に言うと『私は兎に角ツイている=いい運を持っている』から出来たのかも知れないと思ったりしているのである。私の人生は不思議なほどツイていて、いろんな新しいことを手掛けるのだが、目論んだことはほ…
…具体的な施策として、SPA直入という日本ではじめて一般ユーザーが走れるサーキットの建設や、二輪ユーザーの組織KAZEなどの展開を本格的な『ソフト会社ケイ・スポーツ・システム(KSS)』を設立して本格的に対応したのである。従ってこの時期の主役は、販売会社や営業ではなくて、KSSであったと言っていい。そこを中心に『遊んでいても自然に売れるそんな仕組み創造』を目指したのである。★これは私が担当した直後、博報堂が調査した『1988年の二輪4社のイメージ』なのである。余談だが、こんな調…
…めてのサーキット運営SPA直入、ユーザークラブKAZEの具体的運営、当時のカワサキのレース運営、月木グループとの連携、岩城滉一とのお付き合い、さらにはカワサキの二輪自動車学校などなど、1990年代の国内の『カワサキのイメージの創造』は、すべてKSSが母体だったのである。このKSSで南常務を支えて頑張ってくれたのが渡部達也さんなのである。 ★こんなメンバーの中でも、私の現役期間中にずっと一緒だったと言えるのが藤田孝明さんである。 久しぶりに吉田純一さんの授賞記念パーティーでお会…
…クラブKAZE も、SPA直入がスタートしたのも、カワサキが初めて鈴鹿8耐に優勝したのもこの時期なのである。 そんなレースや遊びを本格的に専門的に展開していたのが、カワサキの初めての『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム』で『遊んでいたら自然に売れる綜合システムの創造』が私自身の主たる仕事だったのである。 以下は、田崎さんから送って頂いた写真や、千里浜の写真などネットから拾ってきたものだが、すべてが『華やか』で『新しいカワサキのイメージ創造活動』だったのである。 そんな観点か…
…ングの総監督として、SPA直入にもしょっちゅう出入りしていた時期で、島田伸介が8耐最後をカワサキに乗りたいと明石にやって来たりした年でもあって、なかなかの人気だったのである。 私自身が『レース』には、販売以上に没頭していたし、二輪やJSはユーザーの人たちと上手に遊んでいたら、『自然に売れるはず』という仮説の上に、グループ全体がKAZE活動などソフト会社ケイ・スポーツ・システムを中心に動いていた時代である。 高橋さん、田崎さんとは、ジェットスキーレースを2月には宮崎で観戦したし…
…ヤマハの現役時代に『SPA直入のオープン』にも来てくれたし、彼の師匠片山義美さんの引退パーテーにも、神戸木の実の最後の会合にも私を招んでくれたのである。 マウンテンライダースの会合 が彼との最後になった。 そんな金谷との思い出を込めた写真を改めてアップしたのでご覧ください。 山本隆くんのブログからである。 写真は後述する『カワサキワールド』に行った後の食事会の時である。 カワサキファクトリーOB会、カワサキとは契約のなかったが、カワサキとは密接に繋がっていた片山義美さんの顔も…
…る。 ● これは 『SPA直入のオープン当日の写真』 だが私は東記者には直接渡していないのである。 日本で初めて、『一般のユーザー車輌がサーキットを走った』記念すべき日なのである。 当日SPA直入には4000台を越す一般ユーザーの二輪車が集まったのである。 サーキットはバイクで埋まって、直入町長は『有史以来最大の人数がここ直入の地に集まった』とご挨拶されたのである。 当時はレーサーレプリカ最盛期だったのだが、ユーザーはそれを走らせる場所もなく峠のカーブに集まって『峠族』などと…
…と一緒に創ったのが『SPA直入』その名付け親でもある。SPAは長湯温泉のSPAでもあるのだが、『スパ・フランコルシャン』と言うベルギーの有名サーキットともかけての『SPA』なのである。 ● 歳森康師 神戸木の実のライダーで天才的とライダー仲間が言っていた。カワサキで一番最初に契約したのが歳森で、山本隆は片山義美さんと歳森がわざわざ加古川まで足を運んでの『神戸木の実』入りだったとか、2番目に契約したのが山本隆なのである。二輪から4輪に転向したのも早かったし、星野を4輪に誘ったの…